にわかオタクの雑記帳

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仮面ライダーゼロワン感想 空っぽの箱を積み上げて跳んだ夢追い人

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令和初の仮面ライダー、ゼロワン。
堂々たる幕開けだった「令和初代」も、紆余曲折あった1年を何とか走りきり、終わりを迎えました。
個人的なことですが、このブログの更新を再開するきっかけをくれた作品だったので、どんな答えを提示するのか、どんな結末を迎えるのかは例年以上に注視していました。ひとまずのゴールを見届けたので、雑感をぽつぽつと書き並べていきたいと思います。

 

以下、最終回までのネタバレ注意です。

 

 

 

 

 

 

 

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まず、全体的な印象を例えると。

スタートは軽快に飛び出したものの、中盤で一気にジョギングペースまで落ち込み、予想外のアクシデントで立ち止まることを余儀なくされ、再スタート後はフルスロットルで脇目も振らずゴールに駆け込んだ、といった具合です。

 

 

moonyuseiniwaka.hatenablog.com

 

以前の記事に書きましたが、開幕は「新生」に相応しかった。多少の粗はあったものの、それが気にならないくらいの勢いがあり、先を期待させてくれるワクワク感に満ちていました。

 

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映画「令和ザ・ファースト・ジェネレーション」も或人の出発点を掘り下げた「アナザーゼロワン」としてしっかり構成されていて、見栄えのいいスタイリッシュなアクションが相まって、傑作になる予感をひしひしと感じさせてくれました。


そのプラス感情が一気に減衰してしまったのが、悪名高き「お仕事五番勝負」


飛電インテリジェンスを買収せんと登場した新たなライバルにして(結果的には)元凶、ZAIA社長天津垓。
会社の命運を賭けて、単なる力比べではなく、自社の製品で雌雄を決するというコンセプトはいいのですが、人間側の妨害を受けて悪意を感じたヒューマギアが暴走する→それを倒す流れがテンプレート化してしまい、同じ事の繰り返しを5回、計10話に渡って見させられるというテンポの悪さ。加えて、五番勝負で或人側が勝っても、サウザーを倒してボロボロにしても、1000%社長はノーダメージで、次の話ではケロリとしながらヒューマギアを貶す言動を繰り返す。まさにのれんに腕押し状態。
個々のエピソードも、視聴者への分かりやすさを重視した結果なのか、人間側が典型的な悪役に描かれることが多く、「ヒューマギアが浸透した世界」を描くには余りにもお粗末な印象しか残りませんでした……

 


それでも五番勝負が終わり、或人の新たなスタートを描き、これからまさにクライマックスに向けて物語が加速していく、サウザーとの決着も付く、と言ったところで、新型コロナウイルス感染拡大による撮影中断。
異例の事態に、急遽総集編を挟む構成で、物語への影響を最小限にとどめ、きちんと最終回まで放映してくれたことには感謝しかないです。
ただ、この空白期間に描くはずだったろう様々な要素が抜けてしまった、足りなくなってしまったのはかなりの痛手。

 

 

 

 

 

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ヒューマギアと共に歩む未来を夢見た結晶とも言える、最終フォーム仮面ライダーゼロツー」
誰よりもヒューマギアを信じ続け、夢を諦めなかった或人と、彼を信頼し共に歩き続けたイズだからこそ完成させることができたフォームとなれば、(描写不足を感じつつも)感慨に浸れるものです。
が、尺が足りない都合のせいか、ゼロツー初登場の数話後、イズを失った悲しみと怒りから或人が悪堕ちし、アークワンになってしまいます。
流れ自体は首をかしげるような突飛なものではありません。イズと育んできた絆は視聴者にも十二分に伝わってきましたし、大切な彼女を失った喪失感につけ込まれたとしたら、「ヒーロー」であれど「人間」であれば容易に悪に堕ちます。あれを突っぱねられたとしたら、或人は別の意味で人間を逸脱してしまったと言わざるを得ません。

 


ただ、あまりにも急すぎた。ゼロツーに満足な活躍の場が与えられないままの悪堕ちに、「最終フォームって何だったの?」といった疑問が先立ってしまいました。本編中の最後の見せ場が、止めに来た不破さんを撃退するってのはどうなの……そこはアークワンでよかったろ……仮面ライダー2号へのリスペクトを感じられる素晴らしいデザインだっただけに、残念極まりなかったです……3年連続で最終フォーム不遇なの何とかして。
そのせいで、自然な流れだった或人の悪堕ちも、「主人公がラスボスになっちゃったよ? びっくりしたでしょ?」的な制作側の狙いが透けて見えてしまい、素直に飲み込むことが出来なくなってしまった感じです。
最終回での急な「仮面ライダー」プッシュも、唐突感が否めませんでした。

 


作品への信頼が揺らいでくると、今まで気にならなかった粗が浮かび上がってくるのが厳しいところで。
そもそも、ヒューマギア側に立っている或人=ゼロワンが、暴走した彼らを「助ける」ために「破壊する」構図が歪でした。
破壊された個体は別の個体に記憶や人格を移植され、復活してよかったよかったで締めていましたが、「それは本当に同じものだと言えるのか?」といったオタク的な疑惑が常について回っていました。「令和ザ・ファースト・ジェネレーション」に登場した仮面ライダー1型が、暴走マギアを破壊することなく沈めていたので余計に。
結局、ゼロワンが同等の力を手にするのはゼロツーになってからなのですが、暴走間際のヒューマギアを必死に止めていた或人が、マギアになってしまった途端、変身して無慈悲に破壊するのは、噛み合わない歯車を無理矢理回している強引さがありました。
序盤では、いつかそれに触れてくれると思っていたのですが、ありませんでしたね……

 

 


物語の開始からお仕事五番勝負編まで、散々時間をかけて描いてきた「ヒューマギア社会」が、どうにも納得しにくかったのも、登場人物たちへの感情移入の面で妨げになりました。
そもそも、簡単に暴走する危ない商品を販売し続けていいのかという疑問が真っ先にきますが、あくまでヒューマギアを機械として捉えた場合、暴走するデメリットよりも利便性のメリットが勝っていると考えれば納得できます。
車だって、事故で多くの人の命を奪っていますが、現代社会においてなくてはならないもののため、「簡単に事故する車は全面的に廃止しろ!」とはなりません。まあ人間が直接操作してるものとAI制御ものとで、単純比較はしちゃいけないのですが。
とにかく、連日のように暴走事故がニュースで報じられてもなお、社会からヒューマギアが消えなかったのは、その利便性が圧倒的だからだったと考えられます。深く掘り下げれば、愛着がある等の感情論が出てくると思います。
しかし、天津垓が飛電インテリジェンスを買収して新社長に就任し、ヒューマギア廃棄を宣言すると、人々はあっさり彼らを手放します。
ヒューマギアを失ったことで困惑する、仕事が回らなくなるエピソードも描かれはしますが、散発的な印象がぬぐえず、「社会に浸透していたはずのものが消えた混乱」がほとんど感じられなかったんですよね。
以前の記事でちょっと触れたゲーム「デトロイトビカムヒューマン」では、アンドロイドが便利すぎるせいで人々の仕事が奪われ、失業率が大幅に上がり、職を失った人々がアンドロイドへの抗議デモを起こしているシーンが描かれます。こうした「ヒューマギアを取り巻く環境」が、話数を重ねた割りには鮮明に見えてこなかった。
だから、ヒューマギアを守るために叫ぶ或人にも、ヒューマギアのために人類を滅ぼそうとする滅にも、感情移入できなかった。
もっと社会情勢を色濃く反映しろ、とは言いません。それで子供向け特撮番組としての軸がずれてしまっては本末転倒ですから。
ただ、作品の主軸である「ヒューマギア」が、どうにも上手く処理出来ず、胸にわだかまりを残したまま最後まで来てしまいました。

 

 

 

 

 

 

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話の着地点や、「父と子」の対比・重ね合わせなど、最終回は良質な幕引きだったと思います。映画への目配せがあり完全に終わったわけではないものの、ディケイドのような投げっぱなしではありませんでしたし。イズが完全に復活しないビターテイストを盛り込みつつ、基本はハッピーエンドでよかったです。元サヤ感が拭えない面もありますが。


もし、空白期間がなかったとしたら。
歯車は綺麗に回っていたのか。


不破さんや結愛さん、天津垓、亡や雷など、どうにも話の主軸に食い込んでいそうで実質蚊帳の外だったメインキャラクターの面々が、もっと機能したのだろうか。
確かに、積み上げたものはあります。個々の要素をあちらこちらに投げ回したのではなく、きちんとひとつの「軸」を作っていったとは思います。
しかし、その積み上げた箱の中が、どうしようもなく空虚に感じられた。
やりようによっては、中身をいっぱいの出来たのではないか――ゼロワンは、そんな「惜しさ」が残る作品でした。
映画で、この感想が全部ひっくり返るといいのですが……