にわかオタクの雑記帳

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仮面ライダーオーズ 復活のコアメダル 感想 刻まれた思い出が邪魔をしてくる

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公開から日が経った今、この作品を観るということ。


以前ブログの他記事にも書いたかもしれないが、自分が仮面ライダーをちゃんと見始めたのは「W」からであり、W、オーズと非常に完成度の高い作品を入り口にしてしまったものだから、変に目が肥えたオタクになってしまった。
ただ、オーズという作品が自分の中でとてつもなく大きなものだったかといわれるとそうではなく、だから完結編が劇場公開されても、未だ出口の見えないコロナ禍の中でリスクを抱えてまで劇場に足を運ぶかどうか迷ってしまい、見に行くのが遅くなってしまった。

 

詳細なネタバレは見ないようにしていたものの、割と深刻なレベルで賛否が真っ二つに分かれていることは知っていた。
自分は人の意見に流されやすい人間なので、ネタバレが伏せてあっても深い感想ツイートなどは避けつつ、「何故賛否が分かれているのか」を確かめに映画館へと赴いた。

 

ちなみに、自分は「これこそオーズ」「こんなのオーズじゃない」と論じられるほど愛も知識も深くないことを前置きしておきます。

 


以下、ネタバレを含む感想になるので注意です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「賛否が分かれる内容」という点を踏まえた上で見ると、「映司は人造グリードであるゴーダに体を乗っ取られていることでかろうじて生き永らえており、実質的には死んでいる」という事実が明かされた時点で……いや、それ以前に冒頭で復活したアンクの前に現れた映司の様子が少しおかしい時点で、誰かが命を落とすだろうこと、ハッピーエンドにはならないだろうことを察してしまった。
映司がそのまま死んでしまうのか、それとも瀕死の映司を助けるために再度アンクが犠牲になるのか……例え結末が予想できたとしても、その過程が納得のいくものなら安易に否定してはならない。そう思いながらスクリーンを見続けた。


終幕で、火野映司は死んだ。


1年間を駆け抜けてきた最終回ではなく、10年後に描かれた「完結編」で迎えるヒーローの死。
その衝撃は、自分と違い真っ新な状態で見た人々にとって凄まじいものだっただろうし、「仮面ライダーオーズ」という作品とどう捉えていたかによって、この「終わり」を受け入れられるかどうか分かれるだろう。

 

もし、自分が公開初日に何のネタバレも匂わせもない状態で鑑賞したら、どうだっただろうか。
「アンクの復活」と「手が届いた明日」の代償を、自らの命で払った映司。
欲望を満たすためには、同等の対価が必要になる。その真理を貫くために、安易なご都合主義を盛り込まなかった結末。
受け入れられたか、否か。正直判別できない。
ただ、「ヒーロータイム」を卒業したからこそ、10年の時を経たからこそ描ける「完結編」なんだという点については、何度でも首を縦に触れるくらい納得した。一夜限りのお祭り騒ぎではなく、ここからまた新たなオーズを描いていくためではなく、「明確に仮面ライダーオーズを終わらせる」制作陣の覚悟は、作品とパンフレットのインタビューを通じて痛いほど伝わってきた。

 


だからこそ。

 

だからこそ。

 


ポジティブでもネガティブでも、内容について語りたかった。ここがよかったあそこがよかったああじゃないこうじゃないと言葉を並べたかった。
自分は、その土俵に上がれなかった。

 

 

 

理由は、「最終回の再演」にある。

 


もはや内容を語るまでもないだろう、TVシリーズの最終回。アンクの命を賭したタジャドルコンボへの変身と、ドクター真木との決着。割れるコアメダルと「命を得た」と語るグリードとの別れ。10年経った今でも鮮明に思い出せる、心に刻まれた最終回である。
自分としてはあのラストと「MOVIE大戦MEGAMAX」があったからこそ「仮面ライダーオーズ」という作品の評価が確立されたと思っているし、後世に語り継ぐに相応しい名シーンだと今でも言える。

 

オーズといえば真っ先に浮かぶ人も多いであろう、象徴的なラスト。

 

厄介なことに、オタクは時が経てば経つほど昔に自分が感銘を受けたものを神格化しがちで、安易に触れてほしくなくなる。
自分にとって、オーズの最終回もその域に入っていたのだ。
それを痛感したのは、「平成ジェネレーションFINAL」での「一度目の再演」である。
映司役である渡部さんの意見も取り入れたというオーズパートは、(疑似的とはいえ)アンクの復活を劇的に演出してくれた。
ただ、そこから再度の別れに至るまではまさしく最終回の再演であり、セリフまで同じなのは度が過ぎる、とスクリーンから目を逸らしたくなるほどの拒絶反応が出てしまった。雑な言い方をするなら、二次創作を見ているようで恥ずかしくなってしまったのだ。

 

 

moonyuseiniwaka.hatenablog.com

 

あれは「オーズの最終回」のためのシーンで、他に持ち出してほしくない。
最終回以外で、あのシーンは見たくないのだ。

 

 

そんな神格化をしてしまっていたからこそ、今回の完結編で映司に憑依したアンクが、タジャドルコンボエタニティに変身する直前。
心の中の自分は、「ま……まさか……や……やめてくれ……頼む……」と必死に祈り続けていた。
あれは、あそこまでアンクと共に辿り着いた映司だからこそ言えたセリフであり、「エモい展開」を演出するために持ち出していいものじゃない。今、ここで、再現するものじゃない。
……冷静になった今なら、アンクが意趣返しをしたという風にも取れる。だが、一度目の再演で刺さった棘が、判断力を奪っていた。
そして、アンクが「お前が一番やりたいこと」と口にした瞬間、「あっ…………終わった…………」と自分の心は急速に冷え切ってしまった。あれこれ考えていたこと、感じていたことが全部崩れ去った。映司の死を受け入れるどうこうを考えられる熱は、ほとんど残っていなかった。


一連の流れを「最終回の焼き増し」「エモ展開の演出」と捉えてしまった自分のせいで、「復活のコアメダル」もまた二次創作的な枠に入ってしまった。
公式が打ち出した覚悟を、刻まれた思い出が邪魔したせいで、きちんと受け取れなかったのだ。

 

 

 

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「復活のコアメダル」は映司ではなくアンクの湿度を十二分に盛り込んだ作品で、アンクが映司のことをどれだけ認めていたか、どれだけ信頼していたか、どれだけ大切に思っていたかを感じられる作品だった。

 


だからこそ。

 

だからこそ――

 


タジャドルコンボエタニティに変身し、決着に至るまでのシーンは、テレビシリーズ最終回を模したもの、映司とアンクの立場を入れ替えたものではなく、アンク自身の言葉と、最終回に囚われない演出が見たかった。


例え結末がハッピーエンドだったとしても、この一点だけはずっと受け入れられないだろう。
刻まれた思い出が、風化してしまうまでは。